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11/07/2021

こ:もう一つの重要な機能

東北方言の公用語化の一環として、
「青森方言管見」を基に、
「こ」の重要な機能について整理しました。

編集者:千葉光

目次:
・重要な機能
・青森方言管見より
  ①もう一つの重要な性格
  ②老人たちの自然会話を基に検証
  ③対象が具体的に把握された状況
  ④仮説の裏付け
  ⑤事物、事柄等を表わす語に付く場合
  ⑥東北方言「こ」の全般に通ずる機能
・方言学者
・編集後記

重要な機能

名詞に付く接尾語「こ」について、
東北各地の言語資料では、
小さいもの、かわいらしいもの等に付く
という解説が主流です。

しかし、青森方言管見に於いて、
方言学者・日野資純(ひの すけずみ)は、
「こ」のもう一つの重要な機能について
指摘しています。

それは、
「コ」は、生物・事物・事柄等を表わす 名詞のあとにつき、その語で表わされる対象が、 「その話手によって具体的に把握されていることを表わす」
というものです。

この「こ」の機能について、
次項にて整理しました。

目次 ↑

青森方言管見より

青森方言管見より、①~⑥の順に引用する
形で整理しました。

*引用欄の下に、当方による補足を入れてあります。

出典:
「国語学」34号(1958年9月)
青森方言管見(著者:日野資純)

*「日本列島方言叢書② 東北方言考① 東北一般・青森県」(1994年)に集録

目次 ↑

①もう一つの重要な性格
青森方言管見(著者:日野資純)
二 接尾形式「コ」について

「ベゴ(牛)、チャペ(ねこ)
等における「コ」が、東北方言において、
いわゆる「愛称の接尾語」として
用いられていることは、
已(すで)によく知られている。

即ちこの「コ」は、

(1)特に小さくてかわいらしい生物の
名称を表わす単語のあとにつけて、
話手の、その対象に対する親しさ、
愛情などを示すとされるものであるが、
実際は、その対象への愛情というよりも、

(2)その場に居る聞手(主として子供)
に対して、言葉使いをやさしくするための
ものである。

「本コ」「ナベコ」のように無生物に
「コ」のつくのもそういう理由による。

このことは、青森県出身の先生方に
ついて質問しても確認されることであるが、
私は、最近の調査によって、
「コ」にはもう一つ、重要な性格のあること
を発見した。
しかも、それは今までほとんど見逃されて
きたもののようである。

(1)(2)の用法は、東北各地の言語資料の
解説にも見られます。

次の②にて、「コ」のもう一つの、
重要な性格について、老人たちの会話を
基に検証されています。

目次 ↑

① ↑

②老人たちの自然会話を基に検証
たとえば、この八月、南津軽郡五郷村に
おいて、同村出身の七十四才の老人三名
(男二人、女一人)の自然会話を録音
したものについてしらべてみると、
次のように「ヘビ」という語に「コ」の
ついた例がある。

◯コゴノオ宮ニ、カブト カブッテイル ヘ 居タジバテ
(ここのお宮に、かぶとをかぶっている〔頭部の両側に突起を持った〕蛇が居たというが。男性E)

ここで「蛇」のような気味のわるい生物
を表わす語に「コ」がついているという
ことは、上に述べた(1)の点と矛盾し、
この場合の聞手は、同じ年令の老人同志で
あるということから、
(2)についても必ずしも納得の行かない点
が残る。

しかもこれらの老人自身に内観を求める時
には、口をそろえて、
「へびのような気味のわるいものには
「コ」はつけない」と回答することに
かんがみても、ますます「コ」の性格に
対して疑問が持たれるのである。

そもそも「コ」には、
話手自身にも意識されないような、
重要な性格があるのではないか。

そこで私は、三十五分間にわたる右の
録音資料の筆記記録を詳細に検討した結果、
次のような仮説を立ててみた。

なお、これは今回の調査結果のみに
もとづく仮説ではなく、一年ほど以前から
私がおぼろげながら気付いていたことでも
あった。

ここで著者は、青森県南津軽郡にて、
七十歳代の三名の自然会話を録音した
ものを検証し、(1)(2)の用法と、実際の
「こ」の使われ方に矛盾点があることを
突き止めます。

そして「こ」には話手自身にも意識されない
ような重要な性格があるのではないかとし、
次項③のような、仮説を立てます。

目次 ↑

② ↑

③対象が具体的に把握された状況
≪(3)「コ」は、生物・事物・事柄等を
表わす名詞のあとにつき、その語で表わさ
れる対象が、その話手によって具体的に
把握されていることを表わす≫

以下、実例によってこれを実証してみる。
(いずれも右の資料による)

◯イダチダバ、オエノ、板敷ノ下ニモ居ダッキヤサー、イダチ
(いたちなら、私の家〔オエ〕の板敷の下にも居たよな、〔あの〕いたち。女性C)

これは、「いたちはこの村に居ませんか」
という私の問に対する答であるが、
老人同志の話が自然に続いていた
その途中なのでかなり自然な習慣が
出ていると思う。

そして、文頭の「イダチダバ」と
文末の「イダチコ」との差について、
次のように考えられるのである。

即ち、「さあ、いたちというものは居たか
どうかな」と、はじめは抽象的に考え出した
が、考えが進んで、自分の身ぢかにいたちが
居たことを思い出し、その映像が頭の中に
具体的にうかんできた―

こういう心理的経過をたどったと
考えられるのであるが
そうとすれば、はじめいたちを抽象的に
把握していた時は「コ」をつけず、
具体的に把握した時に至って
はじめて「コ」をつけたと解釈できる
のではないか。

著者は(3)のように仮説を立て、
文頭の「イダチダバ」と文末の「イダチコ」
の差について、いたちを抽象的に把握して
いた時は「コ」をつけず、具体的に把握
した時に至って、「コ」をつけたと解釈
できるのではないかとしています。

次項④では、別の会話でもそれを裏付けます。

目次 ↑

③ ↑

④仮説の裏付け
次の会話もこの推測の裏付となろう。

「コノヘンデモ、アレァ、ムジナダバイル話、アッテアッタナ
(この辺でも、あれ、〔「ソラ」〕、むじななら居るという話が〔前から〕あったな。男性E)」

「対馬(ツシマ)サンモ(こゝへ)来ルッテ(言ったのに)来ナイケド、アノ人ァ 体験シタハナシアル、コゴジナコ
(・・・あの人は ここのむじなについて体験した話をもっている。男性B)

この一続きの話において、
第一の人はむじなを抽象的に話題とした
ために「コ」をつけず、
第二の人は「ここのむじな」というふうに、
意味を限定して具体的に取上げたために
「コ」をつけたと解釈できるのではないか。

著者は会話の中で、
第一の人が「むじな」に「こ」を
つけなかったのは、「抽象的」に話題と
したためであり、
第二の人が「むじな」と話したのは、
「ここのむじな」と意味を限定して、
「具体的」に取上げたためではないか
としています。

次項⑤では、
事物、事柄等を表わす語につく場合に
ついても、会話を基に実証しています。

目次 ↑

④ ↑

⑤事物、事柄等を表わす語につく場合
以上は生物を表わす語に「コ」のついた
例だが、次に事物・事柄等を表わす語に
ついて例をあげる。

先に述べた、蛇のかぶっているかぶとの
ことを説明することばに、

◯チョンド、コノ、オドユビコダケンタモンモネシ
(ちょうど、この親指のようなものですよねぇ。女性C)

これなども自分の親指を突出して説明する
場面であるが、ここでも、具体的に親指を
問題とする時に、それを表わす語に「コ」
をつけたと見られる。

「名」というような抽象的な事柄を表わす
語にも、次のようにつくことがある。

◯(死んだ子供の)名コ忘エシマッタ
(名前も忘れてしまった。女性D)

これも、自分の、死んだ子供の名という
ように限定されているために、それだけ
「名」が具体的に把握されているわけで、
そのため「コ」をつけたのであろう。

以上のように考えることができるとすれば、
最初にあげた「ヘビコ」の例も、
「かぶとのような突起を持った蛇」
というふうに「蛇」が具体的に把握されて
いたために、「コ」がついていると解釈
できるのではあるまいか。

会話の中で、
母親が「名」に「こ」をつけていますが、
これは「自分の死んだ子供の名」と、
具体的に把握されていたために、
「こ」をつけたのであろうとしています。

これは、言葉に表れない部分でも、
話者自身が具体的に把握していれば、
「こ」がつくことを示すものといえる
でしょう。

また、②の例であげた、
「カブト カブッテイル ヘ
(かぶとをかぶっている蛇)
についても、
「かぶとのような突起を持った蛇」と
具体的に把握されていたために、
「こ」がついていると
解釈できるのではないかとしています。

目次 ↑

⑤ ↑

⑥東北方言「こ」の全般に通ずる機能
著者は、「コ」の機能について、
東北方言のすべてに通ずる可能性が
非常に強いと考えているとしています。

たゞ、青森方言の一般の話手たちは、
「コ」の右のような機能を、直接には
意識していないようである。

しかしこゝにあげたような実例に即して
根気よく尋ねて行けば、特に学校の先生方
などは、かなり積極的にこのことを認めて
くれるのであった。

これが東北方言の接尾形式「コ」の
すべてに通ずる性格と言えるかどうかは
未確認であるが、私は、そうである可能性が
非常に強いと考えている。

なぜなら、「コ」の右のような機能は、
最初にあげた「コ」の(2)の機能と、
深い関係を持つに違いないからである。

即ち、子供にやさしく話をするような時に、
「コ」が頻発するということを分析して
みれば、それは結局、子供に対して、
事柄をなるべく分りやすく、具体的に
話そうとする気持の反映に外ならないと
思われるのである。

この点において、「コ」の機能(2)と(3)
とは密接に連関してくるのであるから、
その(2)が東北方言「コ」の全般に通ずる
機能だとすれば、(3)も同時にそうである
可能性が十分だと言えるように思われる。

ここで取り上げている(2)(3)の機能に
ついて整理します。

(2):
その場に居る聞手に対して、
言葉使いをやさしくするためのもの。

(3):
「コ」は、生物・事物・事柄等を
表わす名詞のあとにつき、その語で
表わされる対象が、その話手によって
具体的に把握されていることを表わす。

著者は、ここまで取上げてきた(3)の機能に
ついて、東北方言「こ」のすべてに通ずる
性格かどうかは未確認としつつも、
そうである可能性が非常に強いと考えている
としています。

その理由として、聞手に対して言葉使いを
やさしくして話す(2)の機能が、
(3)の機能と密接に連関することをあげて
います。

目次 ↑

⑥ ↑

方言学者

日野資純(ひの すけずみ)は、
東京出身の国語学・方言学者です。

方言学者とはいえ、なぜ東京出身の方が、
ここまで青森の言語に精通しているので
しょうか。

「はしがき」には、次のようにあります。

一 はしがき

東北地方の中でも、いわゆる方言的色彩が
もっとも濃厚だとされる青森の方言を、
何とかして共通語的な段階にまで
持って行くことはできないものか。

少くともその方向に向うためには、
どんな方法を考えればよいか。
―これが最近における私のテーマである。

当地に来てまだ満四年にもならない私に
とって、このテーマがまことに荷重の負担
であることは分っている。

しかし、青森県の将来のことをも合わせ考え
ると、どうしても「青森方言の共通語化」と
いう問題に具体的に取組まなければならない
と思った。

しかしそれには、まず、
「青森方言はいかに在るか」を体系的に
把握しなければどうにもならない。

その立場から、今夏以来
幾か所か県内の方言調査に従事して来たが、
こゝでその結果の一部を述べ、
さらに旧稿への補いをさせて頂いて、
最近の不勉強のつぐないをしたいと思う。

ただ表題の通り、まさに管見であって、
他の地方に、関連のある現象があるか
どうかについては多く不案内であるので、
その点各位の御教示を仰ぎたい。

この「青森方言管見」は、日野氏が学者と
して「青森方言の共通語化」に取組むための
活動の一環だったようです。

そのために、まず、自身が青森の言語を
体系的に把握するため、県内の方言調査に
従事し、その成果を論文にまとめ、
「青森方言管見」として世に出し、
貴重な資料として残されたということ
でしょう。

「管見」とは、ものの見方や考え方が
とても狭いことのたとえから転じて、
自分の見識を謙遜していう言葉です。

共通語化に取組む活動の一環としてでは
あるものの、結果として、後世にとって
有意義な資料を残してくれたことは、
大変、ありがたいことです。

目次 ↑

方言学者 ↑

編集後記

東北(旧奥州)の言語を100年後の
その先へ継承していくためには、
東北方言の公用語化が不可欠です。

奥州語の文法は、各地の言語資料を基に、
広範囲に共通の用法で構成されています。

公用語化により、言語を次世代に継承できる
環境を整えていければ幸いです。

編集:千葉光

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