東北(旧奥州)各地の言語資料を基に、
可能動詞の不可能表現について整理し
ました。
編集者:千葉光
目次:
・不可能の表現・可能の表現
・各地の言語資料より
・用例
・編集後記
不可能の表現
不可能表現には、二通りの使い分けがあります。条件不可能
・その場の条件や状況による不可能
能力不可能
・能力に起因する不可能
用例で使い分けを示します。
書ぐ(四段動詞):
*え・あ中間音は、こちらを参照
用例では
条件不可能となります。
・その場にペンが無い状況下のため書かれない。
能力不可能
・話者本人の知識不足により書けない。
四段動詞では
書かない → 書か・れない(条件不可能)未然形に条件不可能が、
書け → 書け・ない (能力不可能)
仮定形に能力不可能が
接続します。
起ぎる(一段動詞):
用例では
条件不可能となります。
・寒い条件下のため起きられない。
能力不可能
・話者本人の小さい時からの習慣により起きれない。
一段動詞では
起きない → 起き・られない(条件不可能)未然形に条件不可能が、
起きれ → 起き・れない (能力不可能)
仮定形に能力不可能が
接続します。
能力不可能は「ら抜き言葉」となり、
日本語では規範から
外れるものとされていますが、
奥州語では条件・能力不可能を
区別する役割があります。
心情の表現:
心情の表現の例文は、
「秋田のことば」(2000年、秋田県教育委員会) を基に、
作成しました。
用例の「恥ずかしさ」について、
「秋田のことば」より引用します。
条件不可能
話者自身が「自分」のことについて
語る場合には「状況的」なものであり、
話者自身の「能力」に起因するものではない
と見なされる。
能力不可能
「第三者」について述べる場合は、
それが話者自身のことではないので、
「状況的」なものであるか、
「能力的」なものであるかは判断できず、
より客観的な表現として
「能力可能」の表現が選ばれるようである。
「秋田のことば」では、心情の表現における
条件・能力不可能の使い分けについて、
状況的なものか、客観的なものかを
ひとつの基準にしているようです。
カ変動詞、一段・四段動詞の例:
可能の表現
可能の表現にも(A) その場の条件による可能(以下、条件可能)と、2通りの使い分けがありますが、
(B) 能力による可能(以下、能力可能)
不可能の表現ほど区別されることはないようです。
可能表現の例
4段動詞の例:
(A) 書がえる
(B) 書げる
この例の場合、(A)条件可能 は、
受身の用法と区別が付きにくく、
使う場面も限定されることから、
可能の表現については、
(B)の例に集約されるとみてよいでしょう。
(A) 条件可能については
次の用法もあります。
~にええ
例:書ぐにええ
この用法は
青森・秋田・岩手・宮城・福島(中通北部)に分布、
山形(最上・村山)では
「書ぐにええ」が縮約された「書ぐえ」が分布しています。
また「書ぐにええ」「書がえる」が
併用されている地域もあります。
前述の「~にええ」用法については、
此島正年氏が「青森県の方言(1966年)」で
次の指摘をしています。
ヨムニイという可能表現は
本来は条件可能であったかと思われるが、
現在は能力可能、条件可能どちらにも使われるようで、
この点便利だと言えるが、
ただこれの欠点は打消表現のできないことで
(ヨムニヨクナイとかヨムニワルイとかは言えない)、
従って打消のばあいは
ヨメネェ・ヨマエネェのどちらかを用いなければならない。
この用法の欠点は、
対応する打消表現がないこと、
と指摘しています。
各地の言語資料より
不可能表現の解説が掲載されている、東北各地の言語資料をとりあげます。
注)()内は発行年、著者名
青森(津軽)
青森方言管見(1958年、日野資純)「書ガネェ」と「書ゲネェ」 青森方言では、不可能表現に二種のものがある。青森県の方言(1966年、此島正年)
(1)動詞未然形+(ラ)エネェ=その場の条件による不可能
ワ、ペンコ ネェハンデ、字、書ガエネェ
(私はペンがないので字が書けない)
本人に字を書く素養・能力はあるのだが、
周囲の条件が不十分なため
(この場合、ペンがないため)に書き得ない
(2)可能動詞未然形+ネェ=無能力による不可能
ワ、学校サ行ッタコド ネェハンデ、字、書ゲネェ
(私は学校へ行ったことがないので字が書けない)
本人に本来字を書く素養・能力がない
これらに対応する可能表現
(1)「書グニイイ」
(2)「書ゲル」
ただし、方言で注意を要するのは、
ヨメル・オキレルと並行して
ヨマエル・オキラエルがなお使われ、
しかも両者が可能表現の中で
意義分化をしているらしいことである。
すなわち、
ヨメル・オキレルのほうは
読み・起きる能力があってできるという、
いわば「能力可能」を表わすのに対して、
ヨマエル・オキラエルは、
能力の実現しうる環境・条件の成立によって可能であること、
いわば「条件可能」を表わすという
相違があるらしいのであって、
否定のばあいには
この差がかなりはっきり現われるのである。
ヨメネェと言えば、
教養が低くて読む能力のないばあい、
ヨマエネェと言えば、
たとえば忙しいとか周囲がうるさいとかのために
読むことの不可能なばあいというふうに
おおむね区別して表現するわけである。
青森(南部)
七戸の方言(1997年、石田善三郎)泳ケ゚ネェは能力可能であり、
(余り浅くて、また汚れていて)
泳カ゚レネェは条件可能である。
また、
(私は茸を)ケル(食える)・ケネェ(食えない)は
能力可能であり、
(この茸は毒茸だから)ケネェと言わなくもないが、
カレネェ・カエネェ(無条件に)と言うのが普通である。
秋田
秋田方言(1929年、秋田県学務部学務課)第七章 助動詞 (二)可能の助動詞秋田のことば(2000年、秋田県教育委員会)
字かがれねぁ(かがんねぁ)
(字を書かれない)
袷も着られねぁ(着らんねぁ)
(袷も着られない)
車にも乗せられねぁ(乗せらんねぁ)
(車にも乗せられない)
なんとしても来られねぁ(来らんねぁ)
(どうしても来られない)
肯定の時には、
「だ」を用いて普通の用法の終止形とほぼ同一の型をとる。
字ぁよぐ書げだ(字がよく書かれた)
あすぁほんとに早ぐ起ぎれだ(明日は本当に早く起きられる)
三人位ぁ車に乗せれだ(三人位は車に乗せられる)
えぎぁ(ゆぎぁ)降っても来えだ(雪が降っても来られる)
又「・・・にえ」という言葉を、
第三活用形(終止形)に接続して用いることもある。
字ぁよぐ書ぐにえ(字をよく書かれる)
車に乗せるにえ(車に乗せられる)
秋田方言の「ら抜きことば」には、独自に担う「意味」がある。
標準語では、一段動詞・カ変動詞の可能表現としては、
「見られる」や「来られる」のように
語尾に「ら」を含む形(可能接辞形)が規範的とされ、
「見れる」や「来れる」のような「ら」を含まない形(可能動詞形)は
「ら抜きことば」として非難されることが多いが、
秋田方言では、従来から、可能接辞形と可能動詞形が
可能の意味を区別するものとして、使い分けられている。
可能接辞形は「状況的に可能(不可能)になる場合」、
可能動詞形は「本来持ち合わせた能力により可能(不可能)である場合」に用いられる。
(1a) この服はもう小さくてキラレネァ。〔可能接辞形〕
(1b) この子はまだ小さいので、一人で服、キレネァ〔可能動詞形〕
(2a) 明日は用事があるので、ここにはコラレネァ〔可能接辞形〕
(2b) 方向音痴なので、一人ではコレネァ〔可能動詞形〕
この区別は、標準語では可能動詞形を用いるのが一般的である
五段動詞においても同様である。
(3a) 便箋がなくて、手紙、カガレネァ〔可能接辞形〕
(3b) この子はまだ小さくて、字、カゲネァ〔可能動詞形〕
~中略~
(5) この川は流れが急なので、オヨガレネァ〔可能接辞形〕
(6) この子はまだ小さいので、オヨゲネァ〔可能動詞形〕
(7) ラブレターなんて恥ずかしくてカガレネァ〔可能接辞形〕
(8) 太郎は恥ずかしがり屋だから、ラブレターなんてカゲネァ〔可能動詞形〕
「恥ずかしさ」は、(7) のように、
話者自身が自分のことについて語る場合には「状況的」なものであり、
話者自身の「能力」に起因するものではないと見なされる。
一方、(8) のように第三者について述べる場合は、
それが話者自身のことではないので、
「状況的」なものであるか、「能力的」なものであるかは判断できず、
より客観的な表現として「能力可能」の表現が選ばれるようである。
(7) (8)は「心情可能」とも呼ばれ、
可能の意味を区別する他の多くの方言では、
いずれをも「能力可能」の形式で表されることが指摘されているので、
秋田方言のこうした使い分けの意識は注目に値する。
以上の例は、すべて否定表現で示してきた。
実は秋田方言には、肯定表現では、
「状況可能」を表す形式として「スルニエー」という形があり、
「能力可能」を表す可能動詞形と使い分けがなされるのである。
(したがって肯定表現では、可能接辞形は用いられない。)
この服は仕立て直せばまだキルニエー。《状況可能》
この子はもう大きいので一人で服をキレル。《能力可能》
岩手
おでぇあたっすか-花巻方言の整理と考察-(1976年、佐藤善助)5)可能
クウニエエ(食われる - 食うことができる)
カグニエエ(書かれる - 書くことができる)
ノボラエル(のぼられる - 登ることができる)
オルラエル(おりられる - おりることができる)
カエネェア(買えない)
カワレネェア(買われない)
キルニエ(着るによい - 着ることができる)
キラエル(着られる - 可能)
山形(庄内)
荘内語及語釈(1930年、三矢重松)可能相は(甲)受身と同形、
是は文語も標準口語も同じことだが、
今ひとつ他の(乙)の形がある。
(イ)四段活が下一段になる。
書けナイ
(ロ)上下一段カ変の被役形のラを略す。
起きれナイ 来(コ)えナイ
~中略~
それから可能相の(甲)(乙)の二つの形は
用法に違いがないかというと、少々ある。
一体動作が只出来る意味なのは普通の可能で、
自然にそうなるとか、せずに居られないという様なのは
自然的可能といって区別するのだが、
(乙)の形は一体に其の自然的可能の方に用いられる。
~中略~
子供でも読める
自然的、一般的
おれえでも読まえる(私デモ読マレル)
特殊の場合
山形(全般)
山形県方言辞典(1970年、山形県方言研究会)(6)可能
書かれる。来られる や
可能動詞 書ける・来(こ)れる も用いる
(下一段活用の出れる・見れる などは用いない)
ことは共通語と同じである。
以上の外に、より多く用いられるのは、
動詞の終止形に「エ」をつける語法である。
来られる-クルエ。
この語法は村山・最上地方だけに行われ、
庄内・置賜地方では 読マエル・来(コ)ラエル のようないい方である。
右の例でわかるように形容詞的活用であるが、
本来秋田・青森・岩手および宮城の一部にある可能表現語法
~ニヨイ・~ニイイ・~ニエと同じもので、
ニヨイ→ニイイ→ニエ→エと転化したものである。
福島(全般)
福島県史 第24巻 民俗2 各論編10(1967年、福島県、菅野宏)可能の場合にはこのほかに可能動詞がある。
すなわち「オレデモ カカレル」「オレデモ カカエル」
(おれでも書かれる)とともに
「オレデモ カケル」がある。
~中略~
さて、この可能を表わす
書カレル・書ケルなどの言い方についてみると、
桧枝岐のようにもっぱら「カカレル・カけール」が
用いられるところもあるが、
ほとんど全県に「カカレル・カカエル」と
「カケル」と両形が並用されている。
(宮城県ではカクニエエというが、
この言い方は県境の梁川町などで多少聞かれる程度である。)
~中略~
すなわち自然に具わっている能力、
自然に許されている場合などに
「カケル」を多く用い、
その時その時の意志を伴う行動が
可能かどうかには「カカレル」が、
より多く用いられる傾向があるようである。
たとえば工事中の橋にさしかかった時の質問は
「コノ ハシ ワタレッカエ」「コノ ハシ ワタラレッカエ」
(この橋渡れますか)両形を用いるが、
もし通行止めなら返事は多くは「ワタランニぇーゾエ」のように
「レル」を用いるのである。
「取ル」についても、
ある田から米を何俵とり得るかは
「トレッカ」「トンニぇー」であり、
きのどくな人からお金を徴収して来いと言われたら
「オレニワ トランニぇー」ということが
多いようである。
福島(会津)
田島町史 第4巻 民俗編(1977年、田島町史編纂委員会)可能・自発の場合の用法もほぼ右に準じ、
「カガエル」「オギラエル」となるが、
「カガエル」の場合は
「カゲール」が併行して用いられている。
「カガエル」は意志をともなう行動が可能かどうか
といった場合に多く用い、
「カゲール」は自然にそなわっている能力や
許された状況の場合に多く用いる。
~中略~
また「カガエッカ」のように
他の語が下接する時は促音便化する傾向がある。
カグ(書く)
カゲール(能力・肯定)
カゲネー(能力・否定)
カガエル(条件的可能・肯定)
カガエネー、カガンニェ(条件的可能・否定)
ヨム(読む)
ヨメエール(能力・肯定)
ヨメエネー(能力・否定)
ヨマエル(条件的可能・肯定)
ヨマエネー、ヨマンニェ(条件的可能・否定)
オベル(覚える)
オベエール(能力・肯定)
オベエーネー(能力・否定)
オベラエル(条件的可能・肯定)
オベラエネー、オベランニェ(条件的可能・否定)
キル(着る)
キエール(能力・肯定)
キエーネー(能力・否定)
キラエル(条件的可能・肯定)
キラエネー、キランニェ(条件的可能・否定)
福島(中通北部)
川俣の方言(1991年、新関儀蔵)一、助動詞 2・可能次項では、
〔例〕門限八時だから私も行かレル。
〔例〕徒歩大会の日には日蝕が見ラエル。
東北各地の言語資料から
不可能表現の用例をとりあげます。
用例
不可能表現の用例が掲載されている、東北各地の言語資料をとりあげます。
注)()内は発行年、著者名
津軽語彙 第20編 菅江眞澄と津軽語彙 秋田編(1973年、松木明)
コノ オジャ アンマリ アズクテ ノマレネェ。秋田方言(1929年、秋田県学務部学務課)
このお茶があまり濃いので飲めない。
中々書がんねぁ(なかなか書かれない)庄内方言辞典(1992年、佐藤雪雄)
東京でねぁば見らんねぁ(東京でなければ見られない)(上一)
自分あ調べらんねぁ(自分が調べられない)(下一)
明日だば来らんねぁ(明日なれば来られない)(か変)
カガエネ、カガンネ山形県方言集(1933年、山形県師範学校)
【意味】書かれない、書けない
【例】「じへだでカガエネ」(字が下手で書かれない)。
カガエル
【意味】書かれる。書ける。書くことができる。
【例】「えんぴじでもカガエル」(鉛筆でも書かれる)。
えがんにやえ白石地方の言葉(2007年、片倉信光)
【標準語】行かれない
【使用地方】置賜、村山
【用例】 雨降って今日遠足にえがんにやえ。
(雨が降って今日は遠足に行かれない。)
カンネ原町市の方言 わたしたちの古里言葉(1999年、高野徳)
【意味】食われない。
むかんにゃぇー高平方言集(2005年、高平方言教室)
【意味】むけない
【例】この皮「むかんにゃぇー」
エガンニェ
【意味】行かれない
【例】今夜は用事あってエガンニェ
編集後記
東北(旧・奥州)6県の言語を後世に継承していくためには、
東北方言の公用語化が不可欠です。
奥州語の文法は、
東北6県の言語資料を基に、
広範囲に共通の用法で構成されています。
公用語化により、東北の言語を
次世代に継承できる環境を
整えていければ幸いです。
編集者:千葉光