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5/15/2019

不可能の表現

東北言葉の公用語化の一環として、
東北(旧奥州)各地の言語資料を基に、
可能動詞の不可能表現について整理し
ました。

編集者:千葉光

目次:

・不可能の表現
・可能の表現
・各地の言語資料より
・用例
・編集後記

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不可能の表現

不可能表現には、二通りの使い分けがあります。
条件不可能
・その場の条件や状況による不可能

能力不可能
・能力に起因する不可能

用例で使い分けを示します。

書ぐ(四段動詞):
書ぐ(4段動詞)
え・あ中間音は、こちらを参照

用例では
条件不可能
・その場にペンが無い状況下のため書かれない。

能力不可能
・話者本人の知識不足により書けない。
となります。

四段動詞では
書かない → 書か・れない(条件不可能)
書け   → 書け・ない (能力不可能)
未然形に条件不可能が、
仮定形に能力不可能が
接続します。

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起ぎる(一段動詞):

用例では
条件不可能
・寒い条件下のため起きられない。

能力不可能
・話者本人の小さい時からの習慣により起きれない。
となります。

一段動詞では
起きない → 起き・られない(条件不可能)
起きれ  → 起き・れない (能力不可能)
未然形に条件不可能が、
仮定形に能力不可能が
接続します。

能力不可能は「ら抜き言葉」となり、
日本語では規範から
外れるものとされていますが、
奥州語では条件・能力不可能を
区別する役割があります。

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心情の表現:
心情の表現

心情の表現の例文は、
「秋田のことば」(2000年、秋田県教育委員会) を基に、
作成しました。

用例の「恥ずかしさ」について、
「秋田のことば」より引用します。

条件不可能
話者自身が「自分」のことについて
語る場合には「状況的」なものであり、
話者自身の「能力」に起因するものではない
と見なされる。

能力不可能
「第三者」について述べる場合は、
それが話者自身のことではないので、
「状況的」なものであるか、
「能力的」なものであるかは判断できず、
より客観的な表現として
「能力可能」の表現が選ばれるようである。

「秋田のことば」では、心情の表現における
条件・能力不可能の使い分けについて、
状況的なものか、客観的なものかを
ひとつの基準にしているようです。

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カ変動詞、一段・四段動詞の例:
カ変動詞、一段・四段動詞の例

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可能の表現

可能の表現にも
(A) その場の条件による可能(以下、条件可能)
(B) 能力による可能(以下、能力可能)
と、2通りの使い分けがありますが、
不可能の表現ほど区別されることはないようです。

可能表現の例
4段動詞の例:
(A) 書がえる
(B) 書げる

この例の場合、(A)条件可能 は、
受身の用法と区別が付きにくく、
使う場面も限定されることから、
可能の表現については、
(B)の例に集約されるとみてよいでしょう。

(A) 条件可能については
次の用法もあります。
~にええ
例:書ぐにええ

この用法は
青森・秋田・岩手・宮城・福島(中通北部)に分布、
山形(最上・村山)では
「書ぐにええ」が縮約された「書ぐえ」が分布しています。

また「書ぐにええ」「書がえる」が
併用されている地域もあります。

前述の「~にええ」用法については、
此島正年氏が「青森県の方言(1966年)」で
次の指摘をしています。

ヨムニイという可能表現は
本来は条件可能であったかと思われるが、
現在は能力可能、条件可能どちらにも使われるようで、
この点便利だと言えるが、
ただこれの欠点は打消表現のできないことで
(ヨムニヨクナイとかヨムニワルイとかは言えない)、
従って打消のばあいは
ヨメネェ・ヨマエネェのどちらかを用いなければならない。

この用法の欠点は、
対応する打消表現がないこと、
と指摘しています。

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各地の言語資料より

不可能表現の解説が掲載されている、
東北各地の言語資料をとりあげます。
 注)()内は発行年、著者名

青森(津軽)
青森方言管見(1958年、日野資純)
「書ガネェ」と「書ゲネェ」 青森方言では、不可能表現に二種のものがある。

(1)動詞未然形+(ラ)エネェ=その場の条件による不可能
ワ、ペンコ ネェハンデ、字、書ガエネェ
(私はペンがないので字が書けない)

本人に字を書く素養・能力はあるのだが、
周囲の条件が不十分なため
(この場合、ペンがないため)に書き得ない

(2)可能動詞未然形+ネェ=無能力による不可能
ワ、学校サ行ッタコド ネェハンデ、字、書ゲネェ
(私は学校へ行ったことがないので字が書けない)

本人に本来字を書く素養・能力がない

これらに対応する可能表現
(1)「書グニイイ」
(2)「書ゲル」

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青森県の方言(1966年、此島正年)
ただし、方言で注意を要するのは、
ヨメル・オキレルと並行して
ヨマエル・オキラエルがなお使われ、
しかも両者が可能表現の中で
意義分化をしているらしいことである。

すなわち、
ヨメル・オキレルのほうは
読み・起きる能力があってできるという、
いわば「能力可能」を表わすのに対して、
ヨマエル・オキラエルは、
能力の実現しうる環境・条件の成立によって可能であること、
いわば「条件可能」を表わすという
相違があるらしいのであって、
否定のばあいには
この差がかなりはっきり現われるのである。
ヨメネェと言えば、
教養が低くて読む能力のないばあい、
ヨマエネェと言えば、
たとえば忙しいとか周囲がうるさいとかのために
読むことの不可能なばあいというふうに
おおむね区別して表現するわけである。

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青森(南部)
七戸の方言(1997年、石田善三郎)
泳ケ゚ネェは能力可能であり、
(余り浅くて、また汚れていて)
泳カ゚レネェは条件可能である。
また、
(私は茸を)ケル(食える)・ケネェ(食えない)は
能力可能であり、
(この茸は毒茸だから)ケネェと言わなくもないが、
カレネェ・カエネェ(無条件に)と言うのが普通である。

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秋田
秋田方言(1929年、秋田県学務部学務課)
第七章 助動詞 (二)可能の助動詞
字かがれねぁ(かがんねぁ)
(字を書かれない)
袷も着られねぁ(着らんねぁ)
(袷も着られない)
車にも乗せられねぁ(乗せらんねぁ)
(車にも乗せられない)
なんとしても来られねぁ(来らんねぁ)
(どうしても来られない)

肯定の時には、
「だ」を用いて普通の用法の終止形とほぼ同一の型をとる。
字ぁよぐ書げだ(字がよく書かれた)
あすぁほんとに早ぐ起ぎれだ(明日は本当に早く起きられる)
三人位ぁ車に乗せれだ(三人位は車に乗せられる)
えぎぁ(ゆぎぁ)降っても来えだ(雪が降っても来られる)

又「・・・にえ」という言葉を、
第三活用形(終止形)に接続して用いることもある。
字ぁよぐ書ぐにえ(字をよく書かれる)
車に乗せるにえ(車に乗せられる)

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秋田のことば(2000年、秋田県教育委員会)
秋田方言の「ら抜きことば」には、独自に担う「意味」がある。
標準語では、一段動詞・カ変動詞の可能表現としては、
「見られる」や「来られる」のように
語尾に「ら」を含む形(可能接辞形)が規範的とされ、
「見れる」や「来れる」のような「ら」を含まない形(可能動詞形)は
「ら抜きことば」として非難されることが多いが、
秋田方言では、従来から、可能接辞形と可能動詞形が
可能の意味を区別するものとして、使い分けられている。

可能接辞形は「状況的に可能(不可能)になる場合」、
可能動詞形は「本来持ち合わせた能力により可能(不可能)である場合」に用いられる。

(1a) この服はもう小さくてキラレネァ。〔可能接辞形〕
(1b) この子はまだ小さいので、一人で服、キレネァ〔可能動詞形〕

(2a) 明日は用事があるので、ここにはコラレネァ〔可能接辞形〕
(2b) 方向音痴なので、一人ではコレネァ〔可能動詞形〕

この区別は、標準語では可能動詞形を用いるのが一般的である
五段動詞においても同様である。

(3a) 便箋がなくて、手紙、カガレネァ〔可能接辞形〕
(3b) この子はまだ小さくて、字、カゲネァ〔可能動詞形〕
~中略~
(5) この川は流れが急なので、オヨガレネァ〔可能接辞形〕
(6) この子はまだ小さいので、オヨゲネァ〔可能動詞形〕

(7) ラブレターなんて恥ずかしくてカガレネァ〔可能接辞形〕
(8) 太郎は恥ずかしがり屋だから、ラブレターなんてカゲネァ〔可能動詞形〕

「恥ずかしさ」は、(7) のように、
話者自身が自分のことについて語る場合には「状況的」なものであり、
話者自身の「能力」に起因するものではないと見なされる。
一方、(8) のように第三者について述べる場合は、
それが話者自身のことではないので、
「状況的」なものであるか、「能力的」なものであるかは判断できず、
より客観的な表現として「能力可能」の表現が選ばれるようである。
(7) (8)は「心情可能」とも呼ばれ、
可能の意味を区別する他の多くの方言では、
いずれをも「能力可能」の形式で表されることが指摘されているので、
秋田方言のこうした使い分けの意識は注目に値する。

以上の例は、すべて否定表現で示してきた。
実は秋田方言には、肯定表現では、
「状況可能」を表す形式として「スルニエー」という形があり、
「能力可能」を表す可能動詞形と使い分けがなされるのである。
(したがって肯定表現では、可能接辞形は用いられない。)
この服は仕立て直せばまだキルニエー。《状況可能》
この子はもう大きいので一人で服をキレル。《能力可能》

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岩手
おでぇあたっすか-花巻方言の整理と考察-(1976年、佐藤善助)
5)可能
クウニエエ(食われる - 食うことができる)
カグニエエ(書かれる - 書くことができる)
ノボラエル(のぼられる - 登ることができる)
オルラエル(おりられる - おりることができる)

カエネェア(買えない)
カワレネェア(買われない)

キルニエ(着るによい - 着ることができる)
キラエル(着られる - 可能)

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山形(庄内)
荘内語及語釈(1930年、三矢重松)
可能相は(甲)受身と同形、
是は文語も標準口語も同じことだが、
今ひとつ他の(乙)の形がある。

(イ)四段活が下一段になる。
書けナイ

(ロ)上下一段カ変の被役形のラを略す。
起きれナイ 来(コ)えナイ

~中略~

それから可能相の(甲)(乙)の二つの形は
用法に違いがないかというと、少々ある。
一体動作が只出来る意味なのは普通の可能で、
自然にそうなるとか、せずに居られないという様なのは
自然的可能といって区別するのだが、
(乙)の形は一体に其の自然的可能の方に用いられる。

~中略~

子供でも読める
自然的、一般的

おれえでも読まえる(私デモ読マレル)
特殊の場合

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山形(全般)
山形県方言辞典(1970年、山形県方言研究会)
(6)可能
書かれる。来られる や
可能動詞 書ける・来(こ)れる も用いる
(下一段活用の出れる・見れる などは用いない)
ことは共通語と同じである。
以上の外に、より多く用いられるのは、
動詞の終止形に「エ」をつける語法である。
来られる-クルエ。
この語法は村山・最上地方だけに行われ、
庄内・置賜地方では 読マエル・来(コ)ラエル のようないい方である。
右の例でわかるように形容詞的活用であるが、
本来秋田・青森・岩手および宮城の一部にある可能表現語法
~ニヨイ・~ニイイ・~ニエと同じもので、
ニヨイ→ニイイ→ニエ→エと転化したものである。

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福島(全般)
福島県史 第24巻 民俗2 各論編10(1967年、福島県、菅野宏)
可能の場合にはこのほかに可能動詞がある。
すなわち「オレデモ カカレル」「オレデモ カカエル」
(おれでも書かれる)とともに
「オレデモ カケル」がある。
~中略~
さて、この可能を表わす
書カレル・書ケルなどの言い方についてみると、
桧枝岐のようにもっぱら「カカレル・カけール」が
用いられるところもあるが、
ほとんど全県に「カカレル・カカエル」と
「カケル」と両形が並用されている。
(宮城県ではカクニエエというが、
この言い方は県境の梁川町などで多少聞かれる程度である。)
~中略~
すなわち自然に具わっている能力、
自然に許されている場合などに
「カケル」を多く用い、
その時その時の意志を伴う行動が
可能かどうかには「カカレル」が、
より多く用いられる傾向があるようである。

たとえば工事中の橋にさしかかった時の質問は
「コノ ハシ ワタレッカエ」「コノ ハシ ワタラレッカエ」
(この橋渡れますか)両形を用いるが、
もし通行止めなら返事は多くは「ワタランニぇーゾエ」のように
「レル」を用いるのである。

「取ル」についても、
ある田から米を何俵とり得るかは
「トレッカ」「トンニぇー」であり、
きのどくな人からお金を徴収して来いと言われたら
「オレニワ トランニぇー」ということが
多いようである。

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福島(会津)
田島町史 第4巻 民俗編(1977年、田島町史編纂委員会)
可能・自発の場合の用法もほぼ右に準じ、
「カガエル」「オギラエル」となるが、
「カガエル」の場合は
「カゲール」が併行して用いられている。
「カガエル」は意志をともなう行動が可能かどうか
といった場合に多く用い、
「カゲール」は自然にそなわっている能力や
許された状況の場合に多く用いる。
~中略~
また「カガエッカ」のように
他の語が下接する時は促音便化する傾向がある。

カグ(書く)
カゲール(能力・肯定)
カゲネー(能力・否定)
カガエル(条件的可能・肯定)
カガエネー、カガンニェ(条件的可能・否定)

ヨム(読む)
ヨメエール(能力・肯定)
ヨメエネー(能力・否定)
ヨマエル(条件的可能・肯定)
ヨマエネー、ヨマンニェ(条件的可能・否定)

オベル(覚える)
オベエール(能力・肯定)
オベエーネー(能力・否定)
オベラエル(条件的可能・肯定)
オベラエネー、オベランニェ(条件的可能・否定)

キル(着る)
キエール(能力・肯定)
キエーネー(能力・否定)
キラエル(条件的可能・肯定)
キラエネー、キランニェ(条件的可能・否定)

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福島(中通北部)
川俣の方言(1991年、新関儀蔵)
一、助動詞 2・可能
〔例〕門限八時だから私も行かレル。
〔例〕徒歩大会の日には日蝕が見ラエル。

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次項では、
東北各地の言語資料から
不可能表現の用例をとりあげます。

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用例

不可能表現の用例が掲載されている、
東北各地の言語資料をとりあげます。
 注)()内は発行年、著者名

津軽語彙 第20編 菅江眞澄と津軽語彙 秋田編(1973年、松木明)
コノ オジャ アンマリ アズクテ ノマレネェ。
このお茶があまり濃いので飲めない。

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秋田方言(1929年、秋田県学務部学務課)
中々書がんねぁ(なかなか書かれない)
東京でねぁば見らんねぁ(東京でなければ見られない)(上一)
自分あ調べらんねぁ(自分が調べられない)(下一)
明日だば来らんねぁ(明日なれば来られない)(か変)

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 庄内方言辞典(1992年、佐藤雪雄)
カガエネ、カガンネ
 【意味】書かれない、書けない
【例】「じへだでカガエネ」(字が下手で書かれない)。

 カガエル
【意味】書かれる。書ける。書くことができる。
 【例】「えんぴじでもカガエル」(鉛筆でも書かれる)。

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山形県方言集(1933年、山形県師範学校)
えがんにやえ
【標準語】行かれない
 【使用地方】置賜、村山
 【用例】 雨降って今日遠足にえがんにやえ。
 (雨が降って今日は遠足に行かれない。)

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 白石地方の言葉(2007年、片倉信光)
 カンネ
【意味】食われない。 

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原町市の方言 わたしたちの古里言葉(1999年、高野徳)
 むかんにゃぇー
 【意味】むけない
 【例】この皮「むかんにゃぇー」

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高平方言集(2005年、高平方言教室)
エガンニェ
【意味】行かれない
【例】今夜は用事あってエガンニェ

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編集後記

東北(旧・奥州)6県の言語を
後世に継承していくためには、
東北方言の公用語化が不可欠です。

奥州語の文法は、
東北6県の言語資料を基に、
広範囲に共通の用法で構成されています。

公用語化により、東北の言語を
次世代に継承できる環境を
整えていければ幸いです。

編集者:千葉光

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